【音楽】スピッツ「楓」の2枚の葉
まぁまずは落ち着いてこれを聴いてくれ。
ブログを解説する前からこのことは書きたいと思っていました。
でもTwitterじゃ字数が足りなかった、やっと書けます。
今からこの名曲、「楓」を褒めちぎります。
スポットを当てるのはずばり「歌詞」です。それもただ一部分、エグく素晴らしいところだけです。(この曲の歌詞を全て語っていたら他の記事が書けない)草野マサムネの魅力だとかボーカルの音への言葉の乗せ方の美しさ論などなどは他の人に任せます。
本当は、音楽について語るときに、歌詞を語って終わりにするのは僕は嫌です。(個人的にも、ドラマーだからか、歌詞だけ追って聴くということはあまりないです。)
でも、この曲は仕方ない、というか、サビの頭が仕方ない。本題、いきます。
さよなら 君の声を 抱いて歩いていく
ここです。ここ。 もちろん「楓」はいわゆる失恋ソング(世の中にありふれたものとは比べ物にならないほど良いが)ですし、サビのこのフレーズはまぁ何も考えなければ「ありそうな」ものではあります。
初めて聴いた時も「切ない歌詞だなぁ」くらいには思ったものですが、この曲を好きになって何回も何回もリピートしていた時期のある帰り道、学生の声が遠く離れた西早稲田を一人で歩きながら、この部分を聴き終えてあることに気付き、一度立ち止りスッと考えるのをやめました。いま冷静になって言葉にしてみます。どういうことなのか。
さよなら
→(失恋に対して)割り切れている
君の声を抱いて歩いていく
→割り切れていない、それどころか、割り切りと真逆
なんとサビの頭の1フレーズだけで、このあまりに複雑な相反する感情を歌いきってしまっているのです。
これがもし、
「Ah 君の声を抱いて歩いていく」とか(ありそう)
「今でも 君の声を抱いて歩いていく」(僕の思いつくであろう限界)
とかだったら……?抜け落ちる感情の量は測り知れません。
「さよなら」の部分は、失恋に対して割り切れているというダミーの表明をしただけかもしれません。失恋相手に歌いかけると同時に、自分に歌いかけて、心の在りどころをさぐっている可能性も大いにありますね。でも、その後に「君の声を抱いて歩いていく」とあまりに強い真逆の決意表明をしてしまっている。「さよなら」はどこに行ってしまったんでしょうか。「さよなら」と真逆のことを次の瞬間思ってしまうほど、主体の心の中では感情が溢れ戦っています。本当に大切な人を失ったのでしょう。
「君の声を抱いて歩いていく」
声という具体的な想い出を出したことで引き離せない感が出たのはいうまでもなく、抱いて歩いていく、と動詞の二連発で感情とは裏腹に物質的には主体から離れていく状況を説明しています。もちろん、この感情とは先ほどの相反する2つの感情です。
まぁこの辺にしておきましょうか、これ以上やると泣きそうになってきます。
友人に、「死にそうなところが草野マサムネに似てるね」と言われたことがありますが、僕にこんなもんは書けない。こういうのを書けるようになるには、どういう人生を抱いて歩けばよいのでしょう。単に羨ましいとは思えない気もします。