紅茶文庫

ややななめの視点から、やさしい語り口で元引きこもり・元早大文構生が語ります。要するに読者をかなり意識した雑記です。

終わらない物語

はじめて、裁判傍聴に行ってきた。
こんなブログ、エッセイなんてふわふわしたテーマで書いてないで、裁判傍聴ブログにしてやろうかしらと思うくらい、ハマった。

どっと疲れた。母による3歳の一人娘殺人未遂の事件が、とても重かった。(夫であり父が泣きながら証言するのを聞いていた)
中途半端に内容を語りたくはないのであえて何も言わない。……こういうのに興味がある人は近くの地裁に赴くことをおすすめします。(裁判員裁判を見たのだが、これなら僕のような素人にもわかりやすいと感じた)

そして、僕にとって裁判の内容と同じくらい衝撃的だったのは、同行した先輩に言われた、この言葉だ。

「フィクションと違って、この人たちの人生は裁判が終わればおしまい、じゃない。」

僕は執筆のネタとして、キャラ作りの参考になればいっかなー、などと思っていた。しかし、その構えが原因で最も重要なことを見落としていた。
目の前にいるこの人たちは、小説の登場人物とは違うのだ。背負う未来の頁数が。

そうだ。母に刺された娘の人生も、刺した母の人生も、父の人生も、お互いの両親のそれも、全員が死ぬまで続くんだ。やめたいからといって、やめられない。(やめたきゃ自殺するしかない。しかしそれはこの物語においては一つの登場人物が死んだという記述に過ぎず、さらに別の物語を生む結果になるが。)

それに、もし将来娘が子供を授かったら、負の連鎖が生まれないといえるだろうか?(こんなことを言ってはいけないと思うが……

事件の影響がまた事件や心の揺れを生み、何かまた別の出来事を引き起こす可能性が大いにあるだろう。(その心の揺れに比べれば、僕が今日得た気持ちなどちっぽけなものだろう)

感情も、出来事も、連鎖する。
バタフライエフェクトなんて、些細で間接的すぎるものではない。もっと濃く、より直接的で、リアルな連鎖がもうはじまっている。

それは人間の手によって矯正できるものなのだろうか?ーそんな重い問いを、繰り返えさざるをえない。

自分と自分が起こしたことの影響って、どんなんで、どれくらいなんだろうね。