紅茶文庫

ややななめの視点から、やさしい語り口で元引きこもり・元早大文構生が語ります。要するに読者をかなり意識した雑記です。

不器用に0.5を

ずっと不器用に生きてきた。

手先だけの話ではない、
すべてが不器用だったと思う。
 
小さい頃から運動神経が悪く、工作も得意ではなく、歌も楽器もできるわけではなかった。頭は、ふつう。だが、勉強の仕方は下手だった。勉強時間に対する成績という指標があるなら、よくない方だっただろう。
 
ずっと不器用だと言われ続けてきた、自らに取り柄がないことを
親から、友人から、恋人から、知らされ続けてきた。
 
高校に入って受験勉強をした。
初めて本気で一つのことに集中した。
結果は失敗だった。勉強量なら誰にも負けなかったのに。
これではっきりした。僕が不器用な理由が。
 
正しいやり方を吟味する力に欠けていたのだ。
僕は何も考えていなかった。
 
宅浪をして、いままでのやり方を全て疑ってやった。高校の頃の勉強方法の下手さを知ってゾッとしたし、頭が痛くなったが、あの無駄があったから、いま一番いきたかったところにいるのだと思う。
 
なぜなら、無駄をすればどうなるか、僕は経験に叩き込まれたからだ。僕を常に追うのは、無駄なことに対する、恐怖。そこから脱却するために効率を追い求めた。
 
そして僕は自分にとっての無駄を
異常に嫌う性格になった。
 
そして、そうなりすぎた。
すべて無駄なんじゃないかな と思うことが多くなった。
逆算して考えて、これは自分の人生にとって正しいのか。それを繰り返すうちに、自分のやっていることに自信が持てなくなってしまった。
 
そう、僕は自分のもう一つの不器用さに気付いていなかった。
 
いろいろと思い込みすぎている。
 
ほとんどのことは無駄だと 思い込んで いた。僕は、ひとつ自分の中で判断をするとそれにすべて引っ張られるのだ。
 
もしかしたら、最初っからこれだけが僕の不器用さだったのかもしれない。自分が感じたやり方を正しいと思い込んで捨てなかったから、いろいろと下手だっただけなのかもしれない。
 
無駄なものは削ろう。んでも、折る必要はない。
半分は残しておいても大丈夫。あとで使えはしないだろうなんて、
まだ、それを判断できる人ではない。
でも、えんぴつを折らずに削るくらいはできるようになっているはずだ。
 
一人でできないなら、えんぴつを眺めながら困っていればいい。
不器用な人は危なっかしいから、たくさんの人が見守ってくれるだろう。
最後に削るのは自分だけどね。
 
 
 
 
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サンクコストでわかるメンヘラ ―恋愛経済学1

(マイクをごそごそ)

あっ、ここ、恋愛経済学の教室で間違いないかな?教授のだいすけです。

出席は取らないし、レポートもない。君も好きなところ座っていいよ。

(もしコメントくれたらA以上をあげます。)

 

まぁ私の自己紹介からしようか、教授っていうのは役柄だし、そんな権威とかじゃないんだけどね。私は高校時代から政治・経済が好きで、一番得意なんだけど、なぜかいろいろあって今は早稲田の文化構想学部にいます(メンヘラ養成学部なんて呼ばれてたりするんだな)。ここには愛を扱う授業もあるんだよ(本当)。

というわけで、私のバックグラウンドと学部の特徴をミックスさせた講義、

「恋愛経済学」をはじめようか。

※経済学的説明は簡単なことばかりだから間違ってないだろうけど、

心理学的には正しくないことを言うと思うから、そこんところよろしくね。

 

んじゃまず資料を配ります。

naruhiko1111.com

 読み終えたかな?これでサンクコストについては理解できたね。

つまり、これまであるものに対して使い込んじゃった費用 のことだ。

 

メンヘラの定義(紅茶文庫版)

ところで、今回の主役はメンヘラだ。ちなみに、私は「皆にメンヘラって言われる人からメンヘラって言われるくらいのメンヘラ」だ。直したいものだね。

まず、話をすすめるにあたって、メンヘラを定義したい。俺なりの定義だから、

問題や不具合もあるかもしれないが、この授業ではこうしよう。

メンヘラ=自分の承認欲求が高すぎるせいで他人(特に恋愛対象)に迷惑をかける人

つまり、冷たいことを言えば、かまってちゃんなわけだ。

(ちなみに、メンヘラは精神病と区別しなきゃいけない概念だと考えているよ。)

 

メンヘラとサンクコスト

じゃあ、参考文献のここを見て。

ちなみに恋愛に関しても同様のことが言えて、

付き合っている異性と別れたいと思っても、
これまでのコスト(時間、お金、労力)のことを考えると、
別れを切り出せないことが往々にしてあります。

経済学を恋愛にも応用できるって書いているんだね。

うん、これ見たとき、言いたいこと言われちゃったかなって思ったんだけど、私の場合は「メンヘラが」そういうサンクコストに関してどう考えているかってことを考えてたんだ。普通の人の場合じゃない。普通の人なら時間、お金、労力で済むと思うんだけど。

 

んで、メンヘラの気持ちになると(いやもうすでに私はメンヘラなんだけどね)

「コスト」という部分をもっと違う観点から見てあげる必要があると思う。

メンヘラは、時間、お金、労力とかいう客観的な指標でものごとを考えない。

メンヘラが考えるコストは「対象に向けた自らの思考の質と量」である

こういう仮説を立ててみたい。

メンヘラは、「自己の」承認欲求が高いんだったよね。つまり、付き合うとかキスするのが本当の目的ではなくて(これは手段)自分の承認欲求を満たすことが目的なわけだよ。んでね、自己の承認欲求が高いってことは、承認欲求を満たす動機が強いってことでもあると思うんだ。その目的を達成するために、かなり考えこんでしまうんだね。

(なぜかモテるメンヘラ、いるでしょ?彼らは承認されるために考えつくしているからなんだ)

で、メンヘラがかまってちゃんな理由はここにある。

さぁ、メンヘラになりきって次の台詞を読んでみよう。

「その人のために誰よりも考えて考え込んだんだから、僕はその人にふさわしい」

こういう合理化に陥るのは簡単なことなんじゃないかな。つまり、考えた量や質がいままで投資したコストで、そのコスト=(埋没)費用の回収に目の色を変えているのがメンヘラなわけだ。だから、むやみに振ったりするとヤバい。どうにかして承認されようとさらに考えをめぐらすだろう。んー、犯罪のにおいもする。

 

え?なんだい、そこの綺麗な黒髪乙女。なに?メンヘラに追われて困ってる?

なるほど、じゃあみんなここで考えてみよう。黒髪乙女のために。

 

Q.メンヘラにかまってちゃんされないためにはどうすればいいか

 

考えられたかな、じゃあ私なりの答えを言うね。

そういうときは、メンヘラが君に対して考える機会を相対的に少なくすればいいんだよ。例えば、猫の世話をさせるとか、やりがいのある仕事をさせるとか、熱中できるような運動をさせるとか。経験則だけど、仲のいい友人を作るってのが一番いいなぁ。とりあえず、ほかの事を考えさせることだ。無気力な場合も多いから、難しいけど、少しずつだ。相手と付き合う以外のことが楽しいってことをわからせてあげよう。君のことしか考えていない、偏った彼の頭の中の円グラフ(彼女99パーセント、その他1パーセント)の「その他」の割合を少しずつ拡大してあげればいい。

実は、メンヘラ思考に陥りやすい人は、「彼/彼女を失ったらほかに何もない人」だったりするんだな。

自己の承認欲求を満たすための対象が恋愛しかないときがまずいんだ。

 

君がメンヘラだったとしたら

そう、もし君がメンヘラなら、彼/彼女を所持しているという事実以外の武器を持て。

こんな感じでちょっとかっこつけて第一回の講義を終わりにしようかな。

おしまい。んじゃ、私も武器を探しに行こうっと。

 

 

 

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アウトプット、は、すべて ―『そこの俺』シリーズ1

ねぇ、そこの俺、

「アウトプットがどんなもんか以外に、人の本質的な価値を決めるものはない」よ。

 

アウトプットの価値がその人の価値を決めるんだ。ちなみに、ここでいうアウトプットの範囲は広い。こんなブログ、試験の成績、レポート、論文だけじゃない。SNSのつぶやきもそうだし、日々の発言もアウトプットだ。自分の生き方の断片であり、自分以外の人に干渉するものは全部そう。というか、俺自身に対して返ってくるものですらそう。そうすると身の回りほぼすべてアウトプット。つまり、思考と経験が組み合わされた結果すべてが。

ご飯を食べること自体はインプットなんだけど、どんなご飯を食べるかを選択して実行することはアウトプット(意外に見落とすのが、これらの『インプットに見えるアウトプット』。)

今俺の部屋があんまり綺麗じゃないこととか、いろいろとサボってこんな文章かいてるのも俺なりのアウトプットだよ。ほかのすべてを否定してキーボード打ってるんでしょ。

 

どんなインプットをしているかはその人の価値と関係ない。例えば、アリストテレスを読んで「某皇族の露出が多い」だの低俗な週刊誌を書いている人より、えっちな本を読んで「こころ」のような名作を書ける人の方が価値が高い。

(まぁ、むずかしいだろうけど。俺はインプットの組み合わせがアウトプットの質を決定する説を支持しているからね)

問題は、いいインプットを知っているのに、文字通りクソみたいなアウトプットをしている人がありふれているってことなんだよ。

俺は俺のことを良く知っているから、ここで「こんなにいい作品が溢れているのに、現代人はけしからん」なんていうつもりはないってことがわかるだろう。むしろ俺は、そのことをチャンスだと捉えている。

だって、そんなに上質なインプットを与えられていないーいまいち高尚な芸術や学問が理解できなくて、いい父親に育てられたとも言えないー俺にも、アウトプットの具合しだいでは自分の価値を上げることができるってことでしょ。

これをこの歳で知れたのは大きいと思うんだよね。よく思いついたね。幸運だ。

んーでも、後は俺のやる気しだいってところか。頑張らないとね。

アウトプットの質に気をつけて生きよう。俺の生き方が周りにどんな伝わり方をするか考えてみよう。こんだけ言えば大丈夫かな―?まぁどうせ忘れるだろうね、俺のことだから。でもたまに思い出したいね。

 

あ、でも、最低限、ちゃんと寝ていいものを食べたほうがいいと思うよ。

その選択も君の思考と経験の組み合わせの結果。つまり、アウトプット。

 

 

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あじさいと相合傘

内側にどこか影のある人が好きです。常に太陽の下、濡れたり吹き飛ばされたりせず、まっすぐここまで来た人もいいけど、時に雨や風にさらされて一度こけたりして、でもなんとかここまで来た人が好き。

 

そういう人と会ったときは、過ぎた嵐の夜について慰めあうためのつながりができた、ではなくーもちろん、その人の歴史を聞くのはとても楽しいけど―内側に困難に打ち勝つための強い力、特にやさしさをもった人同士が会った、と解釈する方が好きです。そういう人は辛い人の気持ちが分かるし。嵐の夜はその辛さを思い出すためじゃなく、自分と人のために経験として生かすためにあるんじゃないかな。

 

次の雨のときはあじさいを見るかもしれないし、傘を差し出してくれる人がいるかもしれない。そして傘を差し出してくれる人は、雨が降ることを知ってる人なんじゃないかな。あじさいは、その傘の中から見ると綺麗に見えるよ。

 

 

4、6、7、9、12、2、ジョーカー

僕の周りには話を真剣に聴いて会話できる人がとっても多いんです。話を聴いたうえで、さらにその上に話を丁寧に積み上げる……。そのおかげで、たまに想像もつかないくらい深い話ができたりします。

ここでのポイントは 聴く こと。論理的に話すのは大事だけど、二の次。相手に合わせたカードを切る。なければ、カードを作り出すくらいでなければいけません。

そういうのが上手な人たちに鍛えられ、自分もほんの少しこのスキルを体得できたかなと思います。最近そう実感できたのは、友達の友達を紹介されて、その日のうちにその人の恋愛の話を掘り下げて聴き込んで、アドバイスをしたとき。
(初対面なのに恋愛話を全て話してしまうその子もなかなかすごいですね、しかも女子。)

その日は死ぬほど丁寧に話を聴くことができました。その子も、本当に話してよかったと喜んでくれました。僕もそんなことは初めてで、びっくりしつつとても嬉しかったのを覚えています。

どうやら僕は、この能力が大事だと気づくのが遅かったようです。初対面の人にこんなに心を開いてもらえるとは。帰ってからもよい出会いの充実感でいっぱいでした。恋愛でもないのに。

もしかしたら、人の話を聞けない人って、結局一人で生きているのかもしれない。一人で生きるのも悪くないけど、僕は寂しがりだから、もう少しみんなと一緒にカードを積んでいこうかな。
ソリティア、できないんだよね。


ゴーストノート

知ってます?ゴーストノート。

 
いや、昔銀魂のOPですげぇいい曲を演奏していたんだけどそれ以降中々売れないライブバンド、ghostnoteのことではないのですよ。(でも好きだからはっつける)
 
……いやいや、今回はエッセイですよ。さいごは音楽の話からちゃんと逸れますからね。
 
ゴーストノート。弦楽器やドラムなんかを演奏している人にはおなじみの、聴こえるか聴こえないか微妙な装飾音のことです。
さっきのPVのドラムもよく見てると、スネアを打ってるのにはっきりした音が出てない箇所がいくつかありますね。(まぁ、録音と映像の音は一緒じゃないですが……)
 
実は、バラードを演奏するんなら、ドラマーとしてはこれ、使いこなせないといけない技術の一つなんですね。単調なフレーズも唯一無二なものになりますし、繊細なドラマーはこれを効果的に使います。
 
……でね、最近思うんです!ゴーストノートの考え方って、文章やら日常生活での会話やふるまいにも応用できるんじゃないかなって。
 
文章で言えば、助詞の使い方に気を配る人はゴーストノート使いのプロドラマーさんの可能性が高いです。あと、句読点の位置やら、使う記号とか。昨日後輩とTwitterで「……」(3点リーダ)の話をしましたが、あれの数や位置を自在に調整できる人はプロドラマーさんですね。
 
会話だったら、ちょっとした間を埋めるための相槌とか。また、無言でにこって笑ったり、首をかしげたりなんかの非言語的コミュニケーションもゴーストノートの一種なんじゃないかな、これは色々とあてはめられると思います。
 
些細な感情はゴーストノートです。ほんの少し嬉しい、ほんの少しつらい、ほんの少し憂鬱……そんなゴーストノートを自分の内側から、友人から、大切な人から聴き取れるようになりたいな。
 
スピードが速かったり、おっきな音が詰め込まれた音楽を聴きすぎるとゴーストノートのような繊細な音をキャッチできなくなることがあります。たまにはゆっくりとした会話の流れに身を包んで、聴こえるか聴こえないかギリギリの音に耳を澄ませてみたいのです。

【音楽】スピッツ「楓」の2枚の葉

まぁまずは落ち着いてこれを聴いてくれ。

www.youtube.com

ブログを解説する前からこのことは書きたいと思っていました。

でもTwitterじゃ字数が足りなかった、やっと書けます。

 

今からこの名曲、「楓」を褒めちぎります。

スポットを当てるのはずばり「歌詞」です。それもただ一部分、エグく素晴らしいところだけです。(この曲の歌詞を全て語っていたら他の記事が書けない)草野マサムネの魅力だとかボーカルの音への言葉の乗せ方の美しさ論などなどは他の人に任せます。

本当は、音楽について語るときに、歌詞を語って終わりにするのは僕は嫌です。(個人的にも、ドラマーだからか、歌詞だけ追って聴くということはあまりないです。)

でも、この曲は仕方ない、というか、サビの頭が仕方ない。本題、いきます。

さよなら 君の声を 抱いて歩いていく 

 ここです。ここ。 もちろん「楓」はいわゆる失恋ソング(世の中にありふれたものとは比べ物にならないほど良いが)ですし、サビのこのフレーズはまぁ何も考えなければ「ありそうな」ものではあります。

初めて聴いた時も「切ない歌詞だなぁ」くらいには思ったものですが、この曲を好きになって何回も何回もリピートしていた時期のある帰り道、学生の声が遠く離れた西早稲田を一人で歩きながら、この部分を聴き終えてあることに気付き、一度立ち止りスッと考えるのをやめました。いま冷静になって言葉にしてみます。どういうことなのか。

さよなら

→(失恋に対して)割り切れている

君の声を抱いて歩いていく 

→割り切れていない、それどころか、割り切りと真逆

 

なんとサビの頭の1フレーズだけで、このあまりに複雑な相反する感情を歌いきってしまっているのです。

これがもし、

「Ah 君の声を抱いて歩いていく」とか(ありそう)

「今でも 君の声を抱いて歩いていく」(僕の思いつくであろう限界)

とかだったら……?抜け落ちる感情の量は測り知れません。

「さよなら」の部分は、失恋に対して割り切れているというダミーの表明をしただけかもしれません。失恋相手に歌いかけると同時に、自分に歌いかけて、心の在りどころをさぐっている可能性も大いにありますね。でも、その後に「君の声を抱いて歩いていく」とあまりに強い真逆の決意表明をしてしまっている。「さよなら」はどこに行ってしまったんでしょうか。「さよなら」と真逆のことを次の瞬間思ってしまうほど、主体の心の中では感情が溢れ戦っています。本当に大切な人を失ったのでしょう。

「君の声を抱いて歩いていく」

声という具体的な想い出を出したことで引き離せない感が出たのはいうまでもなく、抱いて歩いていく、と動詞の二連発で感情とは裏腹に物質的には主体から離れていく状況を説明しています。もちろん、この感情とは先ほどの相反する2つの感情です。

まぁこの辺にしておきましょうか、これ以上やると泣きそうになってきます。


友人に、「死にそうなところが草野マサムネに似てるね」と言われたことがありますが、僕にこんなもんは書けない。こういうのを書けるようになるには、どういう人生を抱いて歩けばよいのでしょう。単に羨ましいとは思えない気もします。